人は簡単にダークサイドにはいけます。でも、肯定出来る事、認める事、これ、すげー難しい。特に日本人は義務教育もあり、人と同じ事をするように育てられるから、人と違ったら「あの人おかしい」っていう文化ですよね。
違いを認め、人と違う事をやっている人程、面白くて認められるべきなのに、そういう文化ではないんですよね。だから「ディスる」なんてHIPHOPな言葉も普通に受け入れられる。本当のHIPHOPのディスリスペクトは、相手のスキルを認めて、その上で切磋琢磨するために相手を否定し、さらに自分も否定されて、、、そういうもんだと思うんですが、どうも日本人のディスるとは意味合いが違いすぎる。
”(via exposition)
39 名前: 画板(静岡県)[(゚ε゚)] 投稿日:2010/04/25(日) 22:43:03.12 ID:u03P6z0v BE:1005761298-PLT(12113)
JTはホント人が良すぎる
増税なんて結局は税収が目当てなんだから
タバコが売れなきゃ話にならない
政府は増税と売り上げの減少を天秤にかけて
税率を調整してどのくらなら大丈夫とか考えてんだよ
オレがJTなら一気に一箱1000円まで上げるね
少なくとも今みたいなタバコ一箱の半分以上が税金とか無理だもん
407 名前: 音叉(滋賀県)[] 投稿日:2010/04/25(日) 23:41:14.11 ID:h6oz0Z7Z
»39
JTは頭いいというか当たり前に良く考えている
政府は逃げでタバコを使ってる
JTはこうなることを予想して医薬品と飲料他業種にシフトさせてきてる。
前みたいに猛烈な反対しないのは収益の柱がタバコじゃなくなってるからだよ
政府はどうだろう?あげたところで喫煙者は減ってるのにさらに10月には減るだろうし
税収は増税後のほうが下がるんじゃないだろうか?
次は酒か?ガソリンか?ブランド品か?
シモンちゃん
“the bit wav” is a take on the great wave off kanagawa 神奈川沖浪裏 the woodblock print by japanese artist hokusai
sorry i don’t know the artist – here is the source
(via yellowblog)
三田村鳶魚の『大衆文芸評判記』という本がある。「江戸学」の祖が、大衆小説家をバッサバッサと斬っていく。で、指摘している部分は正しいのだけど、鳶魚という人が根本的に大間違いしている部分があるので、読んでいるとかなり妙な気持ちになってしまう。
で、彼はなにを間違っているのか。
私としてはこの中に書いてあることが、錦絵表紙の草双紙にあること以上に不思議なものであって、確かにこういう読み物として、五六十年も逆転した感じがある。そうしてまたよくもよくもこれほどトンチンカンな馬鹿げたことが書けたものだと思って感心する。これが現代に沢山の読者を持ったということも、そうなると呆れ返らないわけにはゆかない。私はこの縮刷本の巻頭に入っている、著者の肖像を眺めて、それほど年を取った人とも思われないのに、どうしてこんなものが書けるほどぼけたものかと思って、それが不思議にたえません。
フィクションの楽しみ方は、文化の成熟度合いによって変化していく。
詳しく説明するのは大変なので、適当に解説してしまうと、いわゆる草双紙というのはフィクションと現実の区別が曖昧な時代、次にくるのがフィクションに間違いが許されない時代だ。日本では初期の講談速記本が、ブームになっていた時代に当たる。
そして今と同じく、フィクションをフィクションとして楽しむ時代、だいたいこういう風にフィクションの楽しみ方は進歩していく。大衆小説の読者はフィクションとしてそれを読んでいるし、作者もフィクションを書いている。誰も本当の話だとは思っていない。
こういうことを知った上で、次の指摘を読んでみると、なんとも奇妙な気持ちになる。
江戸の美濃屋何某という花火屋であって、この山中まで花火の試験に来たのだ、ということになっている。「その当時花火試しは人里一里水隔てのおきてだったから」云々と書いてありますが、江戸市中では花火の試験どころじゃない。揚げることすら許されなかった、ということは法令に書いてあるけれども、「人里一里外水隔てのおきて」なんていう規定は何にあるのか。見たことも聞いたこともない。その法令がどこにあるか、ということを知らないばかりでなく、江戸の花火屋が相模まで出張って、愛鷹山中へ来て、花火の試験をする、ということは受け取れない。
「人里一里外水隔てのおきて」というのは、江戸の美濃屋何某という花火屋を、愛鷹山へ移動させ、花火を上げさせるための小道具だ。実際の法令なんかは全く無関係、この世界ではそういう風になっているのだろうといった所で処理すべき言葉である。そういう技術を持っていない人には、高度なフィクションを楽しむことはできない。これは好みの問題とか、読み方の違いとかの問題ではない。ある技術を持っているか持っていないのかという問題で、持っている人は読者としてレベルが高い。持っていない人間はレベルが低い、それだけの話だ。
もちろん鳶魚もフィクションというのはあくまでフィクションであって、というようなことは書いているが、実際のフィクションの読み方が初期の講談速記本の読者の水準にとどまっているのだから、言い訳にはならない。自分自身が三〇年程度遅れたレベルの低い読み方をしているにもかかわらず、五六十年も逆転した感じがあるなどと書いてるというわけで、耄碌してるのは著者自身ということになってしまう。時代遅れの頑固爺が見当外れの批判を繰り広げるというギャグなら成立するのだが、残念なことにそういう風には作られていない。なんとも奇妙な文章である。
それじゃ三田村鳶魚は知的レベルが低い人間なのかというと、それはとんでもない話だ。鳶魚の著作はあまり読んだこともないのだけど、これなどは面白かったような記憶がある。
そもそも鳶魚がこういう頭の使い方をしていたからこそ、偉大な仕事をなしえたわけで、講談速記本オモシレ-、大衆小説サイコ-というような人物ならば、ほかの仕事をしていたことだろう。
とにかくフィクションを楽しむというのは、なかなか難しく、誰もができることでもない。鳶魚時代ならまだしも、現代でもある分野では優秀かつ地位も得ている人が、無知な分野に口出しをして、見当違いなことを書いてしまうというのはわりとある。
で、なにが言いたいのかというと、講談速記本の評価の低さの原因はこういうところにもあるんじゃないのかと最近は考えたりしている。 鳶魚いう人はかなり知的水準の高い人だ。大衆小説というのも、当時すでにある程度まで認められていた。それでもこういう勘違いが発生してしまう。まして当時から馬鹿にされていた講談速記本をまじめに論じようという人など存在しないのが当然といったところなのだろう。